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キリスト教は愛を説いているのに、
どうして戦争するの?
 

「キリスト教は愛を説いているのに、どうして戦争するの?」

これと同じ疑問を抱いている人は、おそらく日本には多いでしょうね。私も同感です。
歴史を見ても、また現在の世界情勢を見ても、キリスト教国であると信じられている国による侵略や殺戮がなくなったためしがないですからね。

日本においても、布教の歴史は侵略の歴史だとも言えます。戦後、マッカーサーの指令によって、どれだけの宣教師がアメリカから派遣されたことでしょう。そのアメリカはどうかと言えば、信教の自由を求めてイギリスから海を渡ったプロテスタントの人々が、先住民族を虐殺したことででき上がった国ですよ。それが聖書によって建国された国だということになっている・・・。考えてみると恐ろしいことです。

こういう歴史的事実が、私たち日本人の心にキリスト教に対する拒否感を与えている要因になっているというのは、否めない事実でしょう?


私もキリスト教は信じない


私は「俺はキリスト教なんて信じない!」と否定する多くの人が、「侵略」や「魔女狩り」などの歴史的「悪」を持ち出すのを知っています。
彼らは殺戮行為の中には、自分が信じたいと感じるものはないと思うし、それを信じないことで、自分がその一部に数えられてしまうことを拒否しているのです。別の言い方をするなら、彼らにとって受け入れがたい行為を正当化するのがキリスト教なら、そんなものは信じないと言っているわけです。

この点に関して私は全く同感です。歴史的不条理を見て、キリスト教は素晴らしいと思う方が信じられません。私もそれがキリスト教なら信じない方がましだと思います。ですから大胆に言うなら、私もキリスト教なんて信じていないということです。 

では私は何を信じているのかと言えば、キリスト教ではなくて、イエス・キリストを信じているのです。
イエスを個人的に信じるということと、キリスト教徒になるということとは、本質的に異なる全く別のことです。この点をはっきりさせる必要がありますね。


キリスト教=イエス・キリストじゃない

イエスはこう言いました。

「悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つものには、左の頬も向けなさい」
「自分の敵を愛しなさい。迫害するもののために祈りさない!」 

これはイエスが教えたことのほんの一部です。しかしこの言葉を見ただけでも、私たちが歴史の中で目撃し、現在のイラク情勢の中に見るキリスト教というものは、イエスの意志の代弁者となっていないということは明らかです。

あなたの敵を愛せ!という言葉を心に深く刻み、それこそが「主の思い」だと本気で信じている人が、どうして罪のない人の血を流せるでしょう?
ルカの福音書には、イエスが逮捕されたときその場に居合わせたペテロが、大祭司の家来の耳を剣で切り落とした事件が記録されていますが、そのときイエスは直ちに「やめろ!」と彼を制しましたし、黙示録では「剣で殺すものは、自分も剣で殺される。ここに忍耐がある!」とも言っています。


失われたエッセンス

初代教会の記録を見ると、彼らはまさに忍耐をもって、イエスが教えたことをそのまま実践したことが分かります。聖書にも歴史的文献の中にも、初代の弟子たちが暴力に暴力で立ち向かったという事実は一つも記録されていません。
初代のクリスチャンたちは、ローマ帝国による激しい迫害の中で、ライオンの餌食になり、火あぶりにされ、それでもなお神を賛美しながら死んでいきました。そんな彼らの殉教の姿がローマ帝国全体を震わせ、一人また一人とローマの高官たちの中にも、イエスを信じる人々が増え広がったのです。

しかし、初代教会の人々が握っていたものと同じ信仰を継承しているはずの現在のアメリカ大統領はどうでしょう。熱心なキリスト教徒だと信じられています。ところが彼はアフガニスタンへの報復攻撃を決定し、それに続いてイラク戦争へもゴーサインを出しました。


あだ名が意味するもの
 
そもそも教会が誕生した当初、そこにはキリスト教ということばさえ存在していませんでした。初代の弟子たちは、自分たちを「キリスト教徒」だとも「クリスチャン」だとも思っていなかったのです。十字架のあるトンガリ屋根の建物も、ステンドグラスも聖書の中には登場しません。私たちがキリスト教的だと思っているものは、実は聖書の中には出てこないのです。

イエスを信じる人々が、最初に自分たちを意識した呼び方は「この道」というものでした。これこそがクリスチャンに与えられた最も古い呼称です。「武士道」で考えればわかりやすいでしょう。つまりそこには「生き方の特徴」があったということです。

「この道の者たち」は、教会が誕生してからおよそ12年後に、シリアのアンテオケという場所で「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。これは周りの人が呼んだのであって、自分たちから「私はクリスチャンです」と言い始めたのではありません。
クリスチャンというのは「キリストのような」とか「キリストにつく者」という意味です。お分かりでしょう。彼らを見てそう呼んだ人々の目に映った「この道」に生きるものの特徴というのは、そのものずばり「キリストのようだった」ということです。

これこそ正しく理解されなければならない現実です。一般的に多くの人は、キリスト教=イエス・キリストであるという公式で見てしまいます。しかしそうではないのです。 
私たちが目撃しているのは、初めの姿からは遠くかけ離れ、大切なエッセンスを失ってしまった形骸化したキリスト教の姿です。ですから、そんなキリスト教を見てがっかりするのはむしろ当然というわけです。


それは争う欲望です 

では、「この道」はどうして堕ちてしまったのでしょう。何が原因なのでしょう?
私たちに彼らを非難することができるのでしょうか?

聖書は、争いが絶えない理由をこう言明しています。

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。
うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。
                   -----ヤコブの手紙4章1節〜2節



これほどの明解はありません。争いというのは、つまるところその人の内にある「戦う欲望」だというのです。つまり聖書は2千年も前から、争いの原因は「人の心なのだ」と宣言しているのです。争うことを欲する心の方向性こそ問題だと。

確かに、私がカップルのカウンセリングの現場で痛感することは、「人はどうしてこうも 争うことが好きなのだろう」ということです。すれ違いがどんなに複雑になって、感情的になっていても、その瞬間にあなたが「やめる」と決めれば争いは止むはずです。しかし頭に来ることを言われたら、そのままそれをやり過ごすということはどれ程難しいことでしょう。
いちいち反応し、捨て台詞の一つでも言わなければ気が済みません。人は皆、自分と異質なものを排除しようとやっきになるし、嫌だと感じる人と一緒にいたくはありません。

気に入らなければ、あからさまに嫌な顔をし、気分が悪ければ相手に失礼な態度をとります。私たちの心には、自分を優先させたいという欲求があります。それが叶わないと相手を非難し傷つけるというのは日常的な出来事です。

聖書は、この心の方向性こそ争いの元なのだと宣言するのです。
私はこの言葉に同意するしかありません。
あなたにもその根はありませんか? 争う欲望が・・・。

「この道」が堕落したのはキリスト教徒が悪い!と簡単に非難できるのでしょうか?