5. 神と呼ばれる存在

一般的日本人の神という存在に対する概念はとても混乱しているように思われます。

交通安全の神様、受験の神様、安産の神様から始まって、ギターの神様や経営の神様、はたまた木の神様や、風の神様まで、神様と名のつくもののオンパレード。そうかと思えば、ちまたにはびこる信仰宗教の教祖様たちは、みんな自分が神だと信じている様です。

御来光を見ながら太陽を拝む人、海外旅行に出かける時、お守りの効力が無くなると不安になるおばあちゃん。何がまつられているかもわからずに手を合わせる人や、お賽銭を投げ込む人。自分も神になれると思っている人。全く一体何がどうなっているのかさっぱり分かりません。まるで神様のバーゲンセールのようです。

人々の信仰心には敬服しますが、このような神なら存在しない!と言わせていただきましょう。このような混乱した概念と、聖書が主張する神とを同列に置いて考えると、全く話が通じなくなってしまいます。

聖書は次の一節で始まります。

『初めに、神が天と地を創造した。』創世記1章1節

これは聖書の書き出しです。聖書は、この絶対的宣言で始まっています。聖書の語る神は、天地万物を創造した創造主、クリエーターです。といっても別に身体があるわけではありません。髭を生やした白髪の老人ではないのです。神は『物質的な存在ではない』からです。神は万物の存在の源であり、物質世界の存在の第一原因なのです。神が物質世界を創造したとき、全てが始まったと聖書は言います。その瞬間、時間という概念も生まれました。神には移り行く影もありません。時間も神によって造られたからです。

では、神は何によって造られたのでしょうか?

答えは『誰によっても造られなかった』です。聖書の主張する神は、永遠の昔から永遠の彼方まで、物質を超えて存在している非物資的な永遠の存在だからです。

小学生の時、視聴覚の時間に宇宙の起源についての映画を見ました。「宇宙は爆発する前は直径1センチ程の球だった。それが爆発して今も広がり続けている。」とその教師は言いました。「先生、それじゃあ、小さかった宇宙の周りはどうなっていたのですか?」勢い良く手を上げて質問したのを憶えています。「それは大変いい質問だ。でもそれは解からない。」それが答えでした。あなたも宇宙の起源について疑問に思った事があるでしょう?

人を月にまで送り、スペースシャトルや宇宙ステーションを生み出した近代科学の最先端である天文学や物理学では、聖書という深遠なテキストを無視することはできません。

なぜなら実際に宇宙の起源や物理学的法則の起源を数千年前から明言している書物は聖書だけだからです。近代社会の英知の結晶である科学の領域では、聖書が常に論じられているというのが現実です。 

聖書は決してキリスト教の教典ではないのです。

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